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ホンダT360公道復帰

ホンダT360公道復帰

T360の説明

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AK250と初期型スーパーカブC100 DOHC&OHVエンジン(ピノキオ茶カブ)

T360/500の走行シーン、アンマッチさんの動画。

その2

05hm

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-9.JPG

T360/500の走行シーン、HPAさんの動画。

その2

上記2台の基本デザインは造型室の木村譲三郎が描いた。
スーパーカブは今も新鮮なデザイン、T360は現在も含めて歴代軽トラ(全自動車を含む?)最高のデザインと思う。
Sのデザインは河村雅夫が担当していた。もちろん、本田宗一郎の好み100%にデザインされた。
T360gomi
T360でゴミ捨て 東山ゴミ焼却場廃熱温水プール前(夜逃げに非ず)

ホンダスポーツS5~800までの本は書店にたくさん有る、同種エンジン搭載ホンダ最初の4輪車T360専門の本は無く、Sのついでにチョット記載されてるだけなのでホームページを作った。
T360とホンダスポーツSは陰と陽、開発者たちもSの事は雑誌などで語っているがT360となると少ない。

下記の説明文は日記から抜粋した、前後のつながりは良くないので・・
あくまでも推測です、何れT360だけのHPを作成予定。
情報が有りましたらメールか書き込みにお願いします、文章もその都度書き換えて行きます。
参考文献のタイトルは日記の中で紹介しています。

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全ての雑誌や書籍にS360開発の途中にT360が出来、そしてS500として販売したと書かれているが・・・
T360の設計者、中村良夫はT360の設計、開発、テストは全てに置いて最優先されたと著書で書いている。つまりS360とはホンダ最初の4輪車T360の開発途中で、T360のエンジンとフレームを利用して、T360の宣伝用として2台だけ作られたと考えれば、ホンダに残っている十数台の生産記録はSでは無く、T360の試作車記録とすれば納得できる。S360の日記
(T360オーナーのムチャクチャな我田引水ですな~)

S600諸元表を見ると、57馬力、715kg、最高速130kmなので
重量比馬力は・・・なんと13kg/ps、
凄いはずのT360の20kg/ps(610kg30馬力)よりもっと凄い、これはエンジンサイズはSもTも同じで、重量がチョット重いだけ、排気量の多いほうが有利となる。
S360を発売しなかったのもこの点だと思う、市販用車体ではT360より100kg重くなるので、数字上軽トラに負けてしまう。
軽トラより非力なスポーツカーでは困るので、500ccにした。

日本初のツインカム搭載車はT360、ホンダがT360を出したとき「ツインカムエンジン付きのトラックを作るのは世界広しといえども、ほかにはアルファしかない」と、良く引き合いに出されたアレである。
アレとは1954年発売のツインカム・トラック「ロメオ」、詳しくはソロ・アルファ4に記事あり。

ホンダT360は本田技研が最初に作った4輪車、設計者 中村良夫がメッサーシュミット戦闘機のエンジンDB601系を参考に作った。と思う。
DB601エンジンの本の中にホンダエンジンの事も触れられている。

水冷4気筒4連キャブ、日本初のツインカム・エンジン、30馬力で最高速100Km、加速などは現在の車に負けない。ただし、騒音が凄い、これはエンジンの上に座っているから。排気音エンジン音とも外からは驚くほど静か。70Km以上で走れば騒音は後ろに逃げるので素晴らしいツインカム・サウンドを発する。
(水冷4気筒エンジンにしたのは本田宗一郎最初の指示
オール・アルミエンジンは前年1962年発売キャロル(4スト4気筒水冷)が国産軽では初。

チェンジレバーはコラム前進4速、ハンドルの右側にある、操作にはコツがいる。右にしたのは本田宗一郎のトーちゃんカーちゃんの間に子供を乗せた時、左にシフトがあると邪魔になるから。空荷では2速発進OK。
本田宗一郎が、まるまる車1台をデザインしたのはこのT360だけらしい。
正面、Hマークは本田宗一郎のアイデア、全体のバランスが素晴らしい。

T360の型式はAK250(AK=オートモービル・貨物)かな?、後期1キャブ、セルダイ方式からBKと呼ばれることも有る。もちろんBKなどなくAK後期型です。BKなる造語は後期型が出た時からホンダSFで前期と区別する為呼ばれていた。
AK,BKの区別はハッキリしていない、ボンネットがプラスチックになってから、4キャブではなく1~2キャブの場合、セルダイを搭載してからと諸説ある。AKBKは4年の販売期間中かなりの部分でクロスオーバーしている。
AKBKの生産比率、N360のエンジンでTN360の生産が決まると、コスト高のT360は売る気を無くし、後期型であるBKの販売台数はAKよりかなり少ないらしい。
AK
後期型エンジン、始めて見て一番驚いた事は、エンジンがコンパクト。手が入る。
最大の特徴は「ダイナモスターター」これによってセルが無くなり、クーリングファンがクランクシャフト直結なのでベルトが無い。
詳しくは11月5日のブログに

生産台数T360は10万8920台、1965年の軽トラック総生産台数は39万8197台なので、T360のシェアーは10%ある。この数字を見ると、結構善戦している。
(10万台の生産はホンダ公式数字、実際はもっと少ないのでは?1詳しくは2月28日の日記
T500(500cc)は1万226台、T360より荷台が20Cm長いだけで後は同じ。色はモスグリーンだけと思われる。(40cm長いロングもある)
(T360の市場占有率は6%だった。詳しくは3月26日の日記、

車体番号は不明な点が多いらしい、AK250F-30003から始まりAK250F-5053881以降がBKとなるらしい。

T360の色はメイブルー、モスグリーンとアイボリーホワイトの3色。
(メイブルー(水色)が基本だが約10種類あったのでは?イエローもカタログにある)

現存しているT360の色は、私の以外全てメイブルー(水色)です?。アイボリーホワイト(白色)はカタログに色が出ている、昔はかなり出た色みたいだ。
荷台は一方開きと三方開き(H)にフラットデッキ(F)、オプションでパネルバン(V)とターポリン(幌)で合計5種類ある。

パーツリストによると流用できる部品でT360を7種類に分類している。
 種類      機種      商品名
500     AK250     T360
501     AK280     T500
504     AK280     S500
506     AK285     S600
512     AL700     L700
548     AK250改   T360
562     AK250改   T360

となっており、BKは548以降になりますが、548と562の違いは不明。 1キャブ、セルダイは548から(資料Yさんから、日記に詳しく)

設計者中村良夫の記憶では、オートバイの次に自動車生産は決まっていたが、本田宗一郎自身オートバイにかかりっきりで、自動車には興味をもってなかったので中村に任せていた。
最初の試作車(A120)はFFであくまでも試作車だったが、この車を見て藤沢専務が軽トラの生産を発案する。
次の試作車(A170)でようやく社長が興味を持ち出し、突然スポーツカーを作ると言い出す。
藤沢専務も乗り気だったが、2人乗りの小回りの効く商用車と勘違いしてた。
ホンダスポーツ360(A190)でようやく自動車生産が具体的になる。
藤沢専務が車販売経験の無いホンダではまず軽トラで行くべし、本田、中村も正論なので従った。
(試作車の呼び方は本によって違う)
軽トラのエンジンはA190(X)を使用、ツインカム高回転高馬力のムチャクチャなトラックが出来た。反対も有ったが・・
「エーじゃないか、ヨタヨタしないトラックができるぞ!!」社長の一言で決定された。

藤沢太郎著「ぼくらのメイドインジャパン」小学館刊には「この軽トラは始めからまちがっていた」と書いてある。私は気に入ってますが・・
水冷ツインカムエンジンでなかったら

S360の代わりにT360が作られたと書いてある本もあるが、中沖満は特約店(バイク自転車店)の強い要望でT360を最優先で生産する計画だったと書いている。今でもそうだが、冬季はバイクが売れないので、四輪を作ってくれ!との切実な特約店の声を優先、本田宗一郎の道楽スポーツカーは後回し。
当時、ご近所のバイク自転車店が軽三輪(ミゼット等)を売りまくり、大儲けしているのを見て、ホンダ特約店が黙ってる訳もない。研究、テストもT360がすべてに置いて最優先されたと中村良夫も書いている。

(T360発売の昭和38年軽トラ発売台数31万3883台、三輪トラック6万5885台、三輪車は昭和35がピークの14万台の販売)

S360の販売中止は「驚異の時速120Km」と前宣伝したが、馬力が足らず、試作車はアルミを多用してヤット120Km出た、市販車では500ccに上げた。試作車は2台作られ、2台とも工場の廃棄物置き場に捨てられ、何時の間にか消えた。S360は今でも何処かに有るのでは?これもホンダ伝説の1つ。
(S360生産台数はFRP製2台だけ、と当時の製造担当者が語っている。詳しくは2月22日の日記

中村良夫が設計者として参加した陸軍戦闘機「飛燕」は「複雑・繊細ニシテ実用機ニ非ズ」と書いて有り、悲劇とも書いてある。
この点についてT360の設計者中村良夫は著書で、よほど悔しかったのか何度も書いている。最初の生産では本物より高性能を出すので、軍から過剰な注文が来て量産となると指定の金属が不足、悪い金属で量産を続けた。
特にクロームは全く枯渇し、アメリカは性能を次々上げて来たのに日本はひたすら性能を下げていった。
T360のエンジンは中村良夫の怨念か?金属材料は採算を度外視した最高級材質を使用している。
販売価格34万円でエンジンだけでも34万以上したらしい?
販売にあたりトヨタの社員2名が「素晴らしいエンジンですが、本当に こんな軽トラ売る気ですか」と聞いたらしい。

さて、メッサーシュミット戦闘機のコピー飛燕は「当時の日本ではハードルが高すぎてコピーは無理」欧米に比べてベアリングの精度は10%、燃料噴射ノズルは5%しか精度が出なかった。
DB601エンジンの中にホンダエンジンの事も書いてあり、1964年からのF1ではベアリングの故障は無かったと書いてある。
T360やSもベアリングの故障は無かったようだ?
良く壊れたのは水周りで、ホンダ初めての水冷なのでトヨタ日産を参考にすれば良かったのに、一番悪いロータスを参考にした。
戦前、陸軍海軍が総力上げて出来なかったエンジンを町工場の本田技研が実用品として完成させた。

ホンダS800エンジンと同じなのにT360だけは特別扱いされているのは、その大きさに問題がある、小さすぎる。360ccで組み立て式ニードルローラーベアリングのクランクシャフトは大変らしい。
T360サービスマニュアルには「指定工具ピンセット」が何度もある。
4つの小さなピストンをクランクシャフトにぶら下げ、イッキにシリンダーに入れるのだが、常識で考えても入る分けない。素人にはチョット手出しできない・・

厄介さにおいては部品も同じ、設計変更は日替わりメニューだったので、現存しているT360は同じ物は絶対無いと断言できる。
クルマの基礎とも言うべきエンジンブロックは通常10年単位で変更されるが、T360の場合、4年の発売期間中9回の変更、クランクシャフトは6回変更されている・・・信じられん。

当時のホンダでは部品注文はシャーシーは車体番号、エンジンはエンジン番号で注文していた、それでも違う部品が物が来たらしい。
番号がチョット違うとボルト1本でも合わない。

エンジンはミッドシップマウト、この当時の軽トラ(コニーなど)は
ミッドシップが多かった。
(正式にはアンダーフロアー、このエンジン搭載方法は三輪車から来ている、
  けして荷台が広く取れる配置ではないが、実績のある堅実なレイアウト、
  T360のエンジンは大き過ぎて床下にしか置けない)
  
本田宗一郎が車1台100%デザインしたのはT360だけ、特にボンネット補強用プレスをHマークにしたのは凄いアイデアーだ。

T360のエンジンはF1エンジン(1500cc12気筒)と同じ。なんで、軽トラがF1なの?特にホンダSオーナーはS500ではないの、と思うのが普通。
中村良夫が後年書いたイラストでは、一番上はT360と本田宗一郎、二番目が中村とS、F1は三番目だ。ホンダ四輪車の始めの1台がT360、もしS360が同時に発売されたら当然S360だった。車生産累計5千万台をピラミッドにすると、頂点がT360。
F1製作にあたり1962年に試作360ccエンジンが完成。リッター出力93馬力、平均ピストンスピード14(m/sec)を達成、これは当時のレーシングエンジンと同じなので 中村は「これでF1に勝てる」と感じた。エンジン開発には紆余曲折有ったが、T360のエンジンがF1とSシリーズの大元です。

T360の開発スタッフは本田宗一郎→中村良夫→久米是志(エンジン担当)→中島源雄(ボディー担当)が各チーフとなりスタートする、勿論、ネジ1本まで本田宗一郎が口を出す。
Sのボディーは森潔がチーフとなるが、気が弱いのかチェーンドライブに猛反対した中村良夫に隠れて社長命令でチェーンドライブを設計した。社長に逆らえば当然殴られた。
さすがに中村良夫も呆れたと書いている。この時期、殴られた事が無いのは中村だけ?この時、開発スタッフはF1を含めても本田宗一郎を入れて18名前後だった。

自信を持って発売したT360、S600、LPの販売は散々だった。
社長本田宗一郎は自動車生産にあたり中村良夫に「軽四輪、4気筒、後は任せる」だけの指示だった。中村は革新的なV型4気筒FF車(A320)を試作する、社長は口を出さない約束が 口も手も出してきて、ついには中村の言う「オバケエンジン」のT360が出来た。
次の軽四輪は世間をアット言わせ、絶対売れる車を目ざした中村は前回の失敗で学習し、社長をいかに騙すかに苦心する。
社長はエンジンとデザインにしか興味が無く、エンジンの図面は一切見せず、デザインを社長好みにし、デザインが決定後エンジンを見せた。
この車は中村が言う「限りなくバイクに近い車」なのでエンジンは簡単にしてある、当然社長はオバケエンジンを主張したが、いまさらデザインの変更は出来ないと社員全員で社長をなだめ出来たのがN360。(Nはノリモノとか なんでもの意味)
N360は爆発的に売れ、倒産寸前のホンダを救った。

ホンダN360の開発には2点ある。まず中村良夫が藤沢副社長(専務)から、売れる車、生産コストの安い車の生産を頼まれたのと、当時スバル360が売れていて、大人4名乗車の軽四輪はこれから伸びると考えたから。

このスバル360の設計者 百瀬善三(NHKプロジェクトX)は中村の1年先輩なので、負けず嫌いの中村としてはスバル360に勝ちたかった。中村は早い時期からFF車が将来の中心となり、特に小型車ではFFが絶対有利と考えていたので、百瀬のリヤ・エンジンの後輪駆動は古臭いと言っていた。
N360は発売と同時に売れた、スバル360をあっという間に追い抜き軽四輪販売日本一に。
この時期、ホンダのバイクは売れなくなり、もしN360がヒットしなかったらホンダは倒産していた。

某雑誌今月号に5ページにわたり1963年の車事情が書かれている。
T360の発売された1963年はどんな年なのか?モーターマガジン誌では「お祭りさわぎ」のような年だったらしい。東京オリンピックの前年、白黒テレビ洗濯機は一般家庭で珍しくは無く、舟木和夫の「高校三年生」、黒四ダムの完成。道路と高速も次々完成、鈴鹿サーキットで第1回日本グランプリ自動車レースも開催された。

この記事5ページ中、1ページがホンダ初の4輪車としてホンダS500を紹介、当然べた誉め。勿論、ホンダ初の4輪はT360。ホンダT360は一言も出てこない。長々とS500の紹介するのなら、枕詞でT360の事も一言入れて欲しかった?
ホンダの意外性を表すのにはスポーツカーよりも、DOHC水冷4気筒4キャブ、オールアルミエンジン軽トラックが良いと思うのだか・・・

T360の設計者中村良夫は著書で「T360はなぜかクレームが無かった」と書いている(ほんとかな~)だとするとT360を買った客筋が見える。

中村がホンダに入社したのは38歳。それまでは「くろがね」で主に三輪車の設計だった、オート三輪車は商業車であり酷使されるのでクレームが絶えなかった。もちろんクレームの有るのは良い事で、中村も使用者の気持ちが分かったと書いる。

軽トラックは純粋に商業車です、買ったお客はオートバイのホンダフアンがほとんど。モータースポーツ好きでTTレースなどでのホンダの活躍を知り、商用二の次で購入したのでクレームは無かったのかも?。
T360発売2年前に噂となっていたF-1参戦を正式に表明、T360をF-1に繋がる軽トラ車と思い購入した。

中村の言う「特殊な客」が「T360を志の高い車」として購入。逆に言うと、特殊な客にしか売れなかった・・・

昨日F-1の話が出たので補足。
ホンダがF-1に参戦したのは以前書いた、何時頃から考えだしたかはハッキリしない。中村がそう書いてます。1961年社長本田宗一郎がヨーロッパに工作機械の買い付けに行き、ついでにモンツァのグランプリを始めて見る、もちろん中村がお膳立てをした。
このレースはグランプリ史上最悪のレースで死者13名を出し、社長は4輪車レースの凄さにがく然として帰ってくる。
この時 あきらめていたら世界のホンダは無かった?

1961年9月、オートモービル・イヤー誌が取材に来て社長にF-1参戦の噂を質問、本田宗一郎は「ホンダはやります!」と答え、通訳の中村は「社長そんなこと おっしゃって大丈夫ですか」と聞きなおした。 社長は「そう・言え!」。

中村良夫は通訳終わると「とぉとぉやるんだ!!」・・感激したと書いてます。

私のT360は前期と後期(AKBK)の中間に極少数生産された珍しい型でTさんも実物はまだ見たこと無いらしい。珍しいのではリヤガラスが2分割もある。
Tさんの職業は車屋さんなので当然プロですが、T360のエンジンだけは触らないそうです。「オーバーホールを自分でしたい」と聞いたら、絶対止めときなさい!S800と違い「細かく精密な為」無理。
東京と九州に名人(元ホンダ社員)がいるそうなのでそこで、プロでも出来ないそうなので特に壊れていないエンジンはオーバーホールする必要なし。
T360のエンジン寿命は意外と短く4万Kmまで、スペアーのエンジンはいるそうです。

長くなるので、その2に続く。

t360写真


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